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別の現代性?
無謀にも、時間内でテート ブリテインからの愚痴を荒訳するという愚挙にでてみる。
制限時間は「猫が朝ごはんをねだりに私の足を噛む」まで。
推定時間:5分。


ALTERMODERN MANIFESTO - POSTMODERNISM IS DEAD
Travel, cultural exchanges and examination of history are not merely fashionable themes, but markers of a profound evolution in our vision of the world and our way of inhabiting it.

More generally, our globalised perception calls for new types of representation: our daily lives are played out against a more enormous backdrop than ever before, and depend now on trans-national entities, short or long-distance journeys in a chaotic and teeming universe.

Many signs suggest that the historical period defined by postmodernism is coming to an end: multiculturalism and the discourse of identity is being overtaken by a planetary movement of creolisation; cultural relativism and deconstruction, substituted for modernist universalism, give us no weapons against the twofold threat of uniformity and mass culture and traditionalist, far-right, withdrawal.


現代改造宣言  ポストモダンは死んでる

旅行、文化交流 そして歴史調査は洒落た主題ではないが、
ぼくらが生息していく上の道筋と世界的展望において、重要な進化の指標となる。

もっとざっくりと、
ぼくらの グローバル化した知覚力は新しいタイプの再展示を、再提出を要求する。
---リプレゼンテーション。---
混沌として満々と降り注ぐ宇宙の中への短距離、長距離の旅、
そして変態国家=超国家の権利に依存している、
ぼくらの日常生活は これまでにない そのような並外れて巨大な背景に 疲れ果てて、役に立たない。

多くの兆候が定義され
ポストモダニズムは歴史的な終わりに近づいている。
多文化主義とアイディンティティの対話は放浪するクレオール主義の運動体に追い越されている。
文化相対主義と脱構築、
普遍的モダニストの代案、
ぼくらにのしかかる
均一な単調さや、
大衆文化と伝統主義者の二重の脅しに対抗する「無力な武器」を与えよ。

ファーライ。(遠い道理。)というよりも、ラスタ・ファーライのファーライか?
撤回。



The times seem propitious for the recomposition of a modernity in the present, reconfigured according to the specific context within which we live – crucially in the age of globalisation – understood in its economic, political and cultural aspects: an altermodernity.

If twentieth-century modernism was above all a western cultural phenomenon, altermodernity arises out of planetary negotiations, discussions between agents from different cultures. Stripped of a centre, it can only be polyglot. Altermodernity is characterised by translation, unlike the modernism of the twentieth century which spoke the abstract language of the colonial west, and postmodernism, which encloses artistic phenomena in origins and identities.

We are entering the era of universal subtitling, of generalised dubbing. Today's art explores the bonds that text and image weave between themselves. Artists traverse a cultural landscape saturated with signs, creating new pathways between multiple formats of expression and communication.


存在の中での現代性の再構成に都合のよい時のようにみえる。
一致して再確認されたぼくらが生きている はっきりとした状況
(決定的なグローバリゼーション時代)
経済的、政治的、文化的局面の合意。
もうひとつの現代性として。

もし、20世紀のモダニズムがすべての西洋文化的現象の上にあるならば、
もうひとつのモダニズムは地球上の交渉 (異なる文化からの代理人の審議) から生じている。
剥き出しにされてはがされた中心、
それをできるのは、多言語に通じたものだけだ。
もうひとつのモダニズムは翻訳によって特徴化され、
西側植民地の抽象的言語で語られた20世紀のモダニズムと、
起源と固有性のなかにある芸術的現象に囲まれたポストモダニズムとは似ていない。

ぼくらは、全世界的説明題(副題)、大多数の吹き替えの世紀に進みこんでいる。
今日の芸術はテキストや映像がそれら自身、織りあわされて縛られている、その縛りを探り出す。
芸術家たちは表現の複製の構成と意思疎通の新しい
抜け道で創りあげている記号で溢れかえって飽和した、文化的風景を横断する。

The artist becomes 'homo viator', the prototype of the contemporary traveller whose passage through signs and formats refers to a contemporary experience of mobility, travel and transpassing. This evolution can be seen in the way works are made: a new type of form is appearing, the journey-form, made of lines drawn both in space and time, materialising trajectories rather than destinations. The form of the work expresses a course, a wandering, rather than a fixed space-time.

Altermodern art is thus read as a hypertext; artists translate and transcode information from one format to another, and wander in geography as well as in history. This gives rise to practices which might be referred to as 'time-specific', in response to the 'site-specific' work of the 1960s. Flight-lines, translation programmes and chains of heterogeneous elements articulate each other. Our universe becomes a territory all dimensions of which may be travelled both in time and space.

The Tate Triennial 2009 presents itself as a collective discussion around this hypothesis of the end of postmodernism, and the emergence of a global altermodernity.




Nicolas Bourriaud


Tate Britain

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猫は邪魔にしにも、足を噛んで餌をねだりにも来ないが、
すでに30分を経過して、なんだか、すっきりともやもやしてきたので、
これは痴の好奇心がわいたのだろうと了解して、

トランスを一時 中断する。

なんとなくわかるなんだけれど、「だからどうした」という気分は拭えない。
まだまだハチャメチャな訳で、自分自身、混乱する。
頭の中では、だいたいのイメージはできているのだけれど、
素読百篇 意 おのずから通づる、とはなかなかならない。

もろもろの時間差があって、
下で、パスタ用の水が沸き始めたので、「そろそろ おわりに しよう」
とも思う。

その後、夜桜見物へ。
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by docore | 2009-03-31 10:59 | S
おととい ほんをよむ
二日過ぎるのが待ち遠しかった。

22日のフラッシュ・モブに「朗読者」として参加して、やはり写真を撮らなくては駄目だ。
ということになった。
薄ら曇りの鈍い鉛の反射のような光の中で、個々人が本を読み広げる一時間なのだが、
新宿東口は「もうひとつの司法系」と誤変換されてもいいように、平面的には決められた約束事を再び破る面白さが滲んでいた。

「なにをしたいのだろう・おれ」という含みをもちながらも、武、オダ、藤井の姿を見つけたとき、
ふっ、とやすらぐ表現者としての安心感があった。
そんなものを感じているから、俺は駄目なんだと思うが、面白かったのだ。
ウサギに角が生えたまま、20分の遅れを取り戻すため、二つのルールを反芻しながら、
「料理沖縄物語」を音読。

たまに吹く風とか、歌舞伎町へ抜ける人々の後姿とか、
悪くは無いな、と思わせる感じが、新しい感覚として手に入った。
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20年前のメモ帳に描かれた夢の記述を風景として再現したが、まぁ、言葉を付け足すならば、
本棚を背負う男と、もだえ続ける女が足りなかったかな。
だいだいのところ、風景としては、22日の11時45分ごろが、その現場だった。
だがしかし、
俺の夢がそこに現れたからといって、別段たいしたことではないので、本を閉じて、渋谷へ向かう。

藤井光の映像に残された痕跡から読み取れるものを、長い時間をかけて待つ。
武盾一郎の映像記録も良かったけれど、なんか「手のひら感覚」過ぎる気もした。
が、
まぁ、次のことがあるから。

ちょうど、ぐゎ、と見開くように、カメラを構えてゆく。ということを考えはじめたので、
とてもいい体験になった。
誌面を作るつもりで、撮影に挑むのも、興味深い。
余白なし。
で。

エディマンが、PAPの「マイブック」を8000円で買うよ。
と言ってくれたのが、とても嬉しい。とりあえず、5500円。
模索舎で。
エディションについて、考え始めるが、とたんに疲れる。ナンバリングとか。疲れる。
鉛筆で手書きか。
とても疲れるが、楽しい。
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by docore | 2009-03-24 09:32 | D
川口 あたりを へべる。
なんとも形容しようのない半日を「へべ」という言葉で表してみる。仮に。
その動詞で、「へベル」「へべっている」となるわけだが、
うちから、西へむかって、人の力に驚いて、駅をまたいで、ぼんやりしていると、「へー こんなところだったんだ」と東浦和に着く。
田舎とか地方とか、どうでもいいことだが、完全に「都市の歩行法」とは違う歩き方を強いられる。

さて、行きかう車に悪態をつきながら、工房 集へ着いたのは、午後の中ごろ。
ZAIM FESTAのコラボ4という、考えてみたら、展示って、こんな集合体でやるべきだ、と思わせてくれた、
中津川浩章さんからの、「ぜひ 来てよ」コールに答えて、「ぜひ みるよ」態度で挑んだけど、表現が作り出す可能性に満ちていた。
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中津川さんのZAIMでの展示を読み込む東方力丸の後ろ姿。
今回、川口 太陽の家では写真を撮らなかったけれど、空間の光の状態や、これは、表面としても移し残しておかなければ、と思わせる、質感、があった。
展示として、
工房 集でもコラボレーション展「つないでひらいて・・・そして」という全国から福祉とアートの新しい出会いを模索、実現しているグループが集い、これからどうするか会議をういういしく、腹の中身を出すように促されてはじめていたが、作品として欲しいものがいくつもあり、そして、作り出すのは困難さを伴う新しい世界の地図が展開していた。
伝説的な作家たちは、ある「表現の臨界点」を経験しているはずだが、工房 集の表現者たちは、その臨界からこちらへ挑んでくる。
そこらへんをどう受け止められるか、ということに考えを巡らせながら、工房 集の天窓から漏れてくる光を浴びていた。
施設として課せられるタガをうまく逆手にとっているようなところが、興味深い。
「外から見えるように」
という強制力が、そのまま、表現の本質的なところを剥き出しにしている。

皿を二枚買う。
てぬぐいもいいのがあった。

妙に駅までの帰路が近く感じて、総じて、はじめてゆくところはそんなものだ。と彼女と言い合いながら、
「ほらみて」
と、光の状態を指して彼女は言う。
「ほら みて」

前日に入ったメールで崔から、「ぜひ みて」コールがあったので、朝鮮学校美術部の展示を見たけれど、
ビルの4・5階を使った作品展は崔が何を生徒と共有しているか、が読み取れた。
崔とは去年のIDで、「なんとかしてくれ」アイデンティティを、パスポートを、とかの話になったが、その問題は個別に取り上げなければならない、デリケートな問題だとも思う。
きちんと、生徒が展示の自主管理をしていて、それらが気持ちいい。
俺にはできないなー。と思わせる、態度というものが、そこにはあった。

西川口に、なかば廃墟化した空間、(空間、それは商工会議所なのだが、市場が空洞化しているのならばそれを取り巻く物的空間も何をどうしても「廃墟化」からは逃れられない。)
に成長過程の人間のひとつの取り組みがそこに現れている。
学生の美術展示ということもあり、「やられた」という気分を拭い去れない。
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崔はメールで「黄金町バザールのまね」と書いていたが、川口は川口でやってゆけばいいと思う。
ある種の交流はあるだろうが、土地環境の独自性をもう少し考慮してゆけば、黄金町も西川口も違う側面から語り始められることがいくつもあるように思える。
という立場にいられるのも、こちらが、荒川と多摩川に挟まれて、のうのうと生きているからだが、今回は個々の生徒の表現を評価するよりも、すんなりと写真をのせておくことで、こちらの評価性を読み取ってほしい。
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by docore | 2009-03-15 06:12 | 月を運ぶ
まだまだ。
ぎっくりについて、考えていて、同時にズコット感覚についても言及していくとなると、
指がもう少したくさんないと、間に合わない。

「まにあわなくても よい」というのが、21世紀の合言葉だが、
あまりにも、「遅延」が続くと、たこのように怒り出す人々がいる。
それで、帰宅時に、駅前で、たこ焼きを買って、溜飲を下げるしまつだ。

たこ。
と打つだけで、こうぼうたこおやじを思い出すが、それをやりすごそうと思っていたら、
フクズミがなんと破産管理室に「福」をおとしていってくれた。
暖簾に腕押しではない、ズコット感覚が、ここに生まれる。
見る角度によって、オダギリ似のフクズミ。きちんと読まねば。彼の美術批評を。

と。405でうらうらしていたら、とんとんと、批評家たちがやってきて、やんごとなき、からまり。

土曜日はいろいろとあって、
Dr.Tommyが「コラボ4×場」のために、空間のために、作った音を再生させる。
ひとつのパーティーが「ぐっ」ときた。
もう。どうしょうもない。
かっこ、いい。
音が。

伏線はいろいろとあるが、しぶいDJのなかじーが、「テーブルは壁にくっつける」と空間に残した言葉が、
おまもりのように、効いている。

---
難しくなっていくのは、ここから先だが、
タイムラインは重要だ。
写真、数枚、載せておいて、あとで書き足してゆく。いつになることやら・・・。
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歩道で踊っている。
いくつかのダンス・フレーズが概視感を呼び起こす。
さほど、踊りを見てきたわけではないので、その動きが誰の発案であるのか?は問い直されてよいと思うが、
振り付けの特許のような話になると、こちらは、泥沼の様相を帯びるので、泥風呂で話直しましょう。

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ZAIMのフェスタに参加するにあたって、とても重要なことだが、かつて、ここのソファで、「あぁ、もう、こんなんだったら、俺でもできたよー」と倒れこみながら、戯れに叫んでいた会田 誠を思い出す。
それですら、まだ、6年前の話だ。トリエンナーレに絡んでの発言だが。
まだ、まだ、、その位置には、その声は残っている。
と踏んで、ある理由から東方力丸を呼んで、「空間を朗読」をやってもらった。
それはZAIMの特別スタッフがビデオに写しこんでくれている。
それにしても、この隠れた角度ですら、「力丸」だとわかる感じが、ひとつの力だ。

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トリエンナーレについて、馬鹿みたいに神経質になっているのだが、勝負どころは勝負してゆく。
乗り越える壁は乗り越える。
写真とは無関係だけれど、ZAIMの別館4階の男子トイレの個室の方に、「のりこえる」
ひとつの作品を提示しています。
現在、写真が見れずに、行きつ戻りつ、言葉を打ち連れているので、手前のスピードだけはあがってゆくが、
飼い猫はのどかにのどを鳴らしている。
という状況の中、「福住が福をおとしていったこと」について、書き始めています。メモ帳に。
暖簾に腕押しから始まって、福が住んでいる。というところまで。
右手のすらりとした、腕が彼の腕です。
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「足元を気をつけてください」と何度言っただろうか。もうのどがかれて、言うのも疲れたその時に、
やっとワークブーツのちょうど良い体重の男がやってきて、「ぱりん」と作品をつくっていってくれた。
とても良いできだ。
とってつけたようなアイデアだったので、やっとできた。本当に。
という気分のよさで。作品解説をしましょう。。
この真ん中に写っているのはJAZZフェスでも有名なバークレーの港なんだけれど、「船で行くか?
飛行機か?」という時に、たまたま日本郵船の社員に貸した、とても大きなお金のことを思い出して、
まぁ、船を踏み絵に。という気分もあったけど、出港の儀式の、船出の音がどうしても初めにほしかった。
そこで、「ぱりん」と。
その音でこの空間に対する船出のようなものは個人的に始まった。

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するすると、図十じゃない頭重のする体で、するすると、横浜行ったり、瀬戸内へ行ったり、北海道行ったりしているうちに、七枚の写真で、なんとかする。
という目論見がもろくも崩れて、もろくも崩れるというのも、いい感覚だなぁ。予定調和じゃないものなぁ。
とか感慨深げに、自動初期状態を続けていると、あたりまえのようにチャシャ猫が暗闇越しに、ニヤリと笑う。
自動初期状態というのもいいフレーズだね。
自動書記というものを掘り下げていっても面白いとは思うが、体が反応して行くものに対して、自身で観察を繰り返してゆくこと、その一点のみが、作家か否かの境界線だと思う。
世界を作り上げることばかりが、「作家」ではないのだ。
世界はゆっくりと立ち上がってくる。
遠藤一郎が残していった言葉の流れが、一同、日に日に感心することしきりで、その筆圧の強弱をきちんと読み取れば、彼の作品力というものの味わいがもっと深く、堪能できるはずだ。
諸氏、読み込みなさい。
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風呂場ではじめて、ボルヘスを読み始めるのだが、風呂の温度が気に入らない。
ボルヘス温度ではないのだろう。
あながちはずれではないけれど、この鏡は我が家の風呂場の鏡で、そういうことが「別府」に伝わってゆけばいいなぁ。と考えてみたり、お門違いであったり。
「NEW IMAGE」
手垢のついた新しい像について、誰よりも深く俺は書いていこうと考えている。
のだが、それは別段、自分のウリ ではない。
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ふー。やれやれ。
いくらでも書き直し続ける用意はあるが、地方裁判所の向かいで行う展示としては、もろもろの要素が考えられるけれど、外壁でオナニーしている女性の写真とか、よく、10日間も展示してくれたものだ。
とも感心している。
横浜 日本大通の街灯とポンピのエスカレーターの組み合わせを、とても気にしています。
60センチぐらいジャンプできれば、これは堪能できた。のですよ。
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by docore | 2009-03-08 11:01 | P
カンガミル
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撮影= 華

さて、横浜ZAIMで行われていることを、というか行ってたことを書いていけばいいのだが、
早朝、当たり前のように時間を無視したメールを拾い上げ、NYの写真祭りのことをふたたび気にする。
こ・れ・は、どうなんだろう。
コンテンポラリル、今日において、どこか逃げ場を探しているうちに、網にいつも引っかかってしまう。
という状況か?!

ZAIMで時代酔いの波をかぶっている身としては、もう、どうでもよくなってきているけれど、展して示すのが今回の用事なのだから、示して展すれば、それでことはすむが、どんどん欲が出てくる。
というのが、俺と今井の意見だ。
その証拠に、今井はこちらが気を許すと、いつのまにか身延山まで飛んでいって、水を汲み上げてくる。
また、行く予定だという。
もう、これで400リットウだ。冬もたつ。
乾燥しているから800はいくな。今回の展示中に。
その入り口にある、俺と華との共作、「NEW IMAGE」の評判を知りたいところだけれど、もうすこし削るので、意見等は、まだ先でよろしい。
たぶん、もう、5人の写真家があの鏡の表面と奥行きを撮影しているはずなので、それぞれの出来上がりを楽しみにしつつ、ちょっと寄った隙に、あの前で一度はストリップをせねばなならい。
何故なら、
あの鏡は我が家の浴室にあった鏡だからだ。20年もの。

さて、19年物とか20年物とか、ちっともコンポラじゃないことばかり押し出していますが、
日記---1992-1993-1994」をZAIMの外壁に貼り付けて、「いったい俺はなにをやっているのだろう???」という状態を軽く乗り越えて、

波止場の青い吐息。

hana が撮影した写真を使って、こんなプレゼンテーションをしてみた。
Dear xmen.

I am intersting for your action.
Some future I want to do exhibition on your space.
Can I hung up my littele works (diary 1991-1992-1993)
in your wall...

Now I hung up my diary works on Zaim yokohama.(japan)
We open the space untill 8 March.

I am living in Japan.

Goso Tominaga.


http://www.x-initiative.org/
へ向けて。
たぶんうまくいくと思う。
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by docore | 2009-03-01 22:38 | P



ワンカップフォトス onecup photos 
by docore
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