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カテゴリ:月を運ぶ( 68 )
気になる展示 等々
藤井 光 ---現代美術製作所 個展/藤井光「芸術、起源、デモクラシー」
※ 戸籍にそうは記されていないが、私の出生地は墨田区業平である。そのような原初の記憶を私はあえて問おうとはしないが、今回のタイトルにもある、「根源」の意味に触れるにも、向島へ出かけるということは、母の胎内と、父の欲望に触れるいい機会である。

ジョンのワークショップ 新宿IRA software freedom
※ ネット上は思想的に自由な発想から組み立たれている。ということを実感するワーク・ショップだと思うが、
ジョン・パイレーツの思想性と人間性が、すこぶる良い。そして・・・。

swanp in nadiff
※ 考えてみれば、随分定期的に行われているイベントだが、期待するのは、12日の螺旋階段を発音体にして行われる、関根のライブ。

それにしても、ああ。

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by docore | 2009-09-19 11:26 | 月を運ぶ
9001
9001
Tシャツ展
---8/9まで!
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9001.
竹本真紀 論を書こうと、目覚めたのだが、ぼんやりと淹れたコーヒーが旨すぎて、まだ、猫の腹をなでている。
そういうことだから、猫の腹でもなでながら読むに値する文章を書き捨てることができる日が来ることを望む。
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by docore | 2009-07-25 10:29 | 月を運ぶ
TSE
ティ エス イーと書いて、ツェと読む。
そういうことを知るだけでも、一日得をした気分になる。

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久しぶりの水戸芸はとても気分が良くて、久しぶりに「美術館へ来た」という感慨に浸れた。
ツェのチケットの半券を冷蔵庫にマグネットで生活臭く貼っていて、「いい作家だなぁ」と単純にファンになっている。こういう気分も久しぶりだ。
展覧会のカタログの文章を浅井さんが書いていて、なんだか次の扉を開いてゆけそうな言葉の質がそこにありそうで、購買欲をかきたてられたが、荷物になるというやわな理由で、買わずじまい。
ツェ スーメイに憧れを持つ女性現代美術家はゴマンといそうだが、何故、ツェだけ浮上して、その他の4万9千9百あたりの作家たちは浮かばれないのだろうか?
そこらへんは美術界の構造にあると思う。

まぁ、浮かばれないな。
幾人もの名のある作家たちを思い浮かべても、だからどうした。そしてどうなる。という感を拭い去ることもできないし、特に基準を高めているわけではないけれど、どうしても、実のある作家がいないような気がする。
長期戦ではあると思うが、いったい誰の何のための現代美術なんだろうか?

くすくすと笑い声が隠れた場所から、漏れてくる。

水戸で血液交換をしたかのようなすがすがしい気分になって、帰京。行きも帰りも高速道路での交通事故に遭い、倍の時間がかかったおかげで、キャンプでの藤井 光と五の井の対談を聞き漏らす。あのかび臭い地下空間、全体的にセントラル イーストはカビ臭い。人間の感覚は優れたものでというか、騙されやすくて、あのかび臭さも、数分で慣れてしまう。そのような空間で醸されているのが、次の現代美術であることは、自明の理だが、過渡期の表現であるようにも思う。あの空間じたいが、何か間違っているような気もするが、あの場所を必要としている人々がいるのも、充分わかる。ボランティアをはじめた、そこで、という可愛らしい女性から説明を受けたが、地下の床に存在感たくましくある石の面。そこにかつては印刷機が置かれていたという。
その面に「PRINT」と大書して、その空間への、時代へのレクイエムとしよう。
階段を降りてきて、ふたたび昇る理由が特にみつからなくなる、素敵な展開が、CAMPにはあるように思う。

ツェのことを記し残そうと模索していて、もがいているわけだが、どの作品も過去に展示案として、幾人かの女性作家から提示されていたことを、不意に思い出して、嫌な汗を流す。特に噴水のアイデアは数人から違った形で提示された。このようなアイデアの共時性とは何なのだろうか?と悩む。
ツェの発表より、10年は前に彼女たちから提示されたから、今になって困っている。

そういう、大きな意味で、私はキューレターにはなりえないのだ。

私はとくに、新しさを求めていないし、驚きも求めていない。
とすると、ツェに求めたものはいったいなんだったのだろうか?

囲碁ではじまり、囲碁で終わった今回のツェの展示法は、私の頭の中の悩み事を白黒つけづに、響いてくる。
残像は日常生活に邪魔なものだが、ツェの作品から受ける残像は、清らかに美しく変換してゆき、こちらの生活を楽しませてくれる。
うきうきとした気分にすらなる。会場に来ていた人々も変に教条的な姿勢にならずに、部屋から部屋へ通過して行く様は、それ自体、美しくすらあった。

たぶん、メインの映像作品を問いただしていかなければなら無いのだろうけれど、そこらへんを語り始めるにはもう少し、時間と自分の中の無粋さ、が必要になってくる。
もしくは、新しい言語と、多大な語彙。

ツェのいいところは、変な罠をはらないところだろうか?
みずみすしい、森の中で、生息する生き物に出会ったような気がする。
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by docore | 2009-05-06 21:04 | 月を運ぶ
なかなか中崎 透明なたくらみ
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中崎 透も、全力で振り逃げをして、かつあろうことか、一塁にではなく、三塁方向へ、
走った  か、と見せかけて、ホーム ベースを踏んでいる。
という比喩が似合う人のような気もする。

緻密なコンセプトはムサビ特有だとは思うが、中崎との最初の出会いは、眼科画廊での展示を見る前に、
mixiで出会ってしまったのが、運の尽きだ。

人を食ったような表現は、じっさい、感覚野において、こちらは食われてしまうのだが、難しいことを言うと、
その表現媒体に接した時に生じる、神との交合にも近いだろう、共振とか、情動という感情を超えて、目の前にある、中崎の作品群は、ぼくの中にもあるという意識を生んで、夢のような状態から覚めていく。
新橋の画廊の屋上に、アンカー残しておきましたから、という発言を延々と覚えていられるのも、水戸でふたたび出会うまで、あまり彼との遭遇が、実際のところなかったからだと思う。
否、そういうと嘘になるかもしれない。
残された、というか、はずしそびれたアンカーは、それでけで詩的な情景を想起させ、すでに新橋の屋上にではなく、私の頭の右脳のはじあたりに、アンカーが埋め込まれている。

たまにそれが、ピカリと日の出の光を浴びて、輝くのだ。

屋上で中崎が残した、アンカーを全員で凝視したのち、「帯広デメテールでの蔡の作品を手伝う俺。=月を運ぶ」。という上映会をした。

「許可取ったの?」

何の許しを請えばいいのかわからないまま、蔡さんには、「たぶんなんかします」と。
教材的に使うことを、こちらは許してもらっているつもりだが、「世間」の反応ははなんだか、うやむやと、むにゃむにゃしていた。
実際の行為の流れは、私の記憶ではBANK ART NYKで終わったが、手元には、膨大な「感想をともにした表現の呼応の果ての音源」がある。
とはいっても、4分づつが120本ぐらいだから、聞き直しにさほど、苦労は無い。

自慢ついでに言えば、
芹沢さんは、「まぁ、大目に見て」と言ってくれて、
偶然ではなく、彼の仕事熱心さから来日していたダニュエル・ビュランは
「とても面白い」と語った。

中崎 透のことをきちんと書きたいのだが、彼のこれからの、自信を持って仕掛けてゆく、コミュニティづくりの差し障りになるだろうから、もうすこし、自分の中の「中島 透 熱」が冷めてから、書き出してゆこう。
と思っている。

美術家として、相当、優秀だと思う。

看板ということについても、考えてみよう。

それにしても、水戸の歓楽街の路上からの風景が、「中崎 透」化していたことに、唖然としてしてしまった。
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by docore | 2009-05-02 07:05 | 月を運ぶ
ごとごととゴトウの音がする
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五嶋英門。
水戸の遊戯室について考えていたら、水戸芸とキワマリ荘の間に、やはり、プレイ ルームがあって、
日本の文化を「PLAY」の側面から考えても面白いのではないか?
いや、別に、ぼくは面白くなくても、ぜんぜん、大丈夫なんだけれど、自分の時間を裂く、というときには、
だれでも、なにがしかの面白みや興味をそこにみつけているから、その場というか世界に身を晒していると
了解している。

いや、なにが面白いかというと、
今流行の、クサリ系という言葉で片付けてはいけないのが、五嶋で、
彼の作品世界に初めて、足を踏み入れたわけだが、なんだか、ヒッピー・サイケ文化をひとりで背負って、なおかつ、唾棄している感じが良かった。
LSD文化を経て、まだ、だらしなくならずに、空間を攻めていこうという意思を感じた。
本来、音を聞き込むべきなんだろうけれど、彼のプレゼンの、300円で2~3曲、販売します。というすがすがしいんだか、糸をひいているのだか、判別つかない、インフォメーションが欲望を刺激する。
マッチ売りの少女みたいだ。

水戸芸の美人学芸員と、コロコロの話をしているときに、目の前に置き放たれた五嶋がテビネッタ、オブジェを
「悪くは無い。」と思うのは、やはり、コロコロの話題による、心の開き具合と閉じ具合に拠るものだと思う。

コロコロ。
と直毛。

わかる人にだけわかる話で、いつも申し訳ないとは思うが、今年のメーデーの準備で、世界、60億のうち、
55億人ぐらいは、てんてこ舞いな日々をすごしている、この季節、FERIMiN MUGURUZAの販促の仕事をしているという男から、ぼくがやっているバンドです。と手渡された、「赤い疑惑サンプラー」というCDのなんか馬鹿っぽい感じのジャケットを眺めて、ここらへんと五嶋の違いはドコラ辺か?と考えてみるけれど、
双方の音をまだ聞いていないので、完全には言い切れない。

フェルミン ムグルサのムシカ イノセンテというやたら、ゲストが濃密な音源を聞いておこうと思い立ち、

バスク!
バスク パンクという、「語義矛盾しているのでは?」と思わせる音楽領域もあるというが、なんだか、水戸というのも、バスクっぽいのかもしれない。
否、もうすこし、洗練されているか。
否、そんな知ったかぶりしてたら、バスクからも水戸からも非難を浴びるのは、必至だ。

なんというか、独立している感じが、すがすがしくするのだ。

チェ スーメイの作品からは、あきらかに音が効果的に、かつ敵対的に使われているのだが、なんだか、こう、
会場を出て、オザワセイジが待ち構えている感じが、「息を抜けない」で、とても美しかった。

なんとなく、昨夜は新宿にいて、知り合いの場所開きに出向いていたので、
とても良く、開く。という気分から、物事を考えています。
新宿の洗濯屋を改装して、カフェびらき。あさびらき。

ほんとうに、わかる人だけに、わかる感じで、申し訳ないです。
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by docore | 2009-05-01 06:35 | 月を運ぶ
ますます増山を知ろうと思った
ますます山というものがありまして...
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現代美術界の大翻訳者(本厄者ではない)の増山士郎の現在の用事というか作品を身をもって体験しようと、覚悟を決めて、水戸へでかけた。

考えてみれば、水戸。水の扉なんてポエ地下ルナ地名をつけやがって、「あぁ。そんなところに住んでいられる人に私はなりたい」と思いながら、すでに、板橋に帰宅して、風呂と同時にパスタ用の湯を同時に沸かすということをやっている。

これはかなり危険なことで、風呂の方は安全弁の役目をする、タイマーがついているからいいのだが、パスタ用のは、ガスコンロを通常通り使っているので、なべの中がからからになるまで、沸かし続けることも、きちんと告白すると、三度あった。
三度も無駄なエネルギーと時間と、そして、「水」を浪費してしまったのか。
と反省ばかりしているが、反省作業をしなければ、月なんか運んでいられない。

記憶をさかのぼって捏造したからといって、大多数の常識というか社会理論が覆るはずはないのだが、パスタを茹でようと欲望しながら、美しい文章を書いて、なおかつ、人が読んでも大丈夫なようにするには、相当な修行が必要だ。

否。ぼくのほうにではなく。読み手のほうに。

「シーツを洗わなければならないので・・・。そうでなければ、もっと、アレして・・・残念です・・・」
とすがすがしい、第一泊目の共通の四人宿泊者に対して、支配人はこぼす。
アレとは何か?と大きな期待と含みを感じながら、それでも、朝市だとか、水戸芸とかに、気もそぞろになっているので、シーツはよれた地図を作りながら、木の枠に収まっている。
幼少期にそそうをして、あの行為がそそうだとわかる前に、体液で描かれた、とても不思議でどこからのメッセージか判らないのだが、瞬時に理解できる文様を眺めるように、ツェと増山の作品を眺めようと努めた。

努めたというといいすぎだが、

増山士郎の今回のHOTEL PLAYROOMは、前後の脈略のない人こそ、大変楽しめる、展覧会だと思う。
よれたシーツからの物語だけで、三年ぐらい、悶々と筆耕できそうな気がする。


あれは、いったい、なんだったんだろうか?
http://hotelplayroom.com/
連泊の達人も出てくるのだろうなぁ。

ツェ。
よかったなぁ。ふむふむふむ。となんだか、彼女の人生の日記を読まされているかのような通路内歩行をさせてもらった。
そして、不眠症傾向のときの、特効薬として、記憶される作品にも出会えた。
わなにはまった!という感はもう、このさいおいといて、自分が海外でこのようなことをしなければならないとなると、結構しんどいだろうなぁ。と思いつつ、不思議なもので、増山を見ているときに、ツェのことを想像して、ツェを見ているときに、増山のことを想像している。
これは、その場を充分に楽しんでいない、ということではなくて、二人の作家が、人の想像力に訴えかける能力に富んでいるからだと思う。

無意識の怖さは市街地に現れるのだが、その朝方、市内を散歩していて、現代的なゴースト タウン化を肌で感じて、どうして、若いアーティストは壁に無闇なことをする前に、この空洞化しつつある街地をどうにかしないのだろうか?とも思い至った。と同時に、自分の老化を認めた。
内部がごっそりと抜け落ちているだろう歓楽街は朝の光に弱弱しく対応しているのは、決して夜の魅了に人々が負けたからではなく、もうそのようなものはいらないのです。わたしたち。と訴えかけてきているかのようだった。キワマリ荘の事始をぼくは知らないが、玄関ハイって、すぐにコタツ。というのは、ジャポニズムをきちんと来客者に伝えているような気がした。水戸の市の玄関が何処にあるか判らないが、バスでたどり着くと、やはり、水戸駅が玄関なのか。駅を中心にして考えてゆくのはもう、古くて、そのような考えでは、21世紀を生きていくのは難しい。日本では、とつけたしてもいいけれど、なんだか、街の中心は駅ではないような気がする。
「真ん中でなんかやって!」
ということであれば、迷わず、皇居を選ぶ。

と話を戻すと、水戸城の北側の「空堀」というものを見つめていて、とても新鮮な気分に襲われた。
そして、意味を取り違えているのだろうと思うけれど、「空を掘る」 なんてぇ行為も詩的だと思った。
意味を取り違えすぎると、行くとこまでいってしまう感じがするが、「SKY DIGGING」なんて、ちょっと素敵な気もする。なんというのか、皇居のように、水がわんさかある北側の湿り気もいいものだが、北側に空の溝を作り出すことができた水戸も奇跡を感じる。土質のせいだろうか?
土で思い出したけれど、中崎透の焼き物で朝食を頂いたのだが、これには感心した。
器の肌に現代でなければつかないだろう、傷がついていたからだ。
あの線の感じをコレクションしたい欲求にかられるが、水戸の商店街にかかわれないのと同じぐらいに、
その欲求ははかないものである。
朝食ついでに、献立を書くと、「もやしみそしる。米。納豆。鮭」さすが、水戸に由来する食材でせめてきて、その心づくしに、温かみを感じる。
しゃけ(鮭)の皮をはぐときに、最近思い浮かばなかった、水戸光圀が現れて、頭の中で、「その鮭の皮と水戸の土地を交換せぬか?」と高い声で言う。あきらかに、欲望に負けた声のトーンが、自分の中の敗北感に同調する。ずいぶんと引きの強い納豆のせいで、箸の先端が思うように操れないのだが、頭の中で「水戸の土地と鮭の皮ではワリが合わないだろう。ぬぬ」と答えておく。
水戸光圀は背後で「しゅっ」と音をたてる。
それは、たぶん、くやしまぎれに弓を引いた音なのだと了解して、鮭を焼く匂いに対して、今後、あのホテルはどう対応してゆくのだろうか?と心配する。

水戸なのだから、朝から鮭の焼く匂いが立ち込めてもいいではないか。
アラスカあたりで獲れたと思われるほどよく油ののった鮭のせいで、光圀がでてきてしまったが、弓を弾いていたのは、ツェ スーメイの方で、彼女がチェロを弾く姿の、後ろ側。その色合いもさることながら、ほんのつかの間、切腹をしているようにも見えて、女の迫力を感じた。
壁の耳は嫉妬心に駆られた日本の有名彫刻家へのおちょくりとは思えず、MP3という音フォーマットへのナニゴトカノレクイエムだとも考え直し、目に見えるように穿たれた穴から漏れる音を聞こうと思うには、また飛ばなければならないので、壁を曲がると、そこに、小さくかわいらしく、耳があった。
逆さまから通してみないことの気分の良さを味わえた。
なんとか、ツェがキワマリ荘へ尋ねてきていたことを伝えようと思うのだが、その中崎のいい感じのブログのアドレスをコピーしたまま、いったいどの文脈にリンクさせればいいのだろうか?
もう、二月も前のことになるし。
フタツキの灰皿を振ると、出てくる音のことを考えていたら、ゴトウくんの作品の大いなる野望のことを考えはじめたりするし、事務用事ではないメールばかりが、ぐすんぐすんとやってくるので、なんとかならんか?と音のこととか、リンクのこととか、難読性が高い日記を書くもの同士が妙に仲良くしている感じとか。

リンク

妙に、批評という方へ引っ張られる袖を引き戻して、相手の帯を取りたいのだが、寝技にまで持っていかれたら、俺にはとうてい立ち向かえないので、このへんで、とりあえず、誰か、ここへ参加すると良いかもよ。
http://www.emergencyrooms.org/criticalrun.html
と伝えるのは、
有意義なことだと思う。

その流れで、帰宅しているはずだが、スーパーデラックスで高橋がやるとても魅力的なイベントへ行けず、その前の日も、キャンプへ行けず、鴨川ホルモーという映画を近所のシネコンで見て、京都の恭平のことが急に気になった。大変だなぁ。と思う。
すでに映画化までされて、それで京大を目指す若者のみならず、途中の人々も多いだろうに、これから、また、京都もアツク、空洞化してゆくのだろうなぁ。と思いながら、初・伊勢神宮 式年遷宮を経験できるかも?という淡い期待を残しつつ、あまり恨みとは無縁で生きてゆきたいものだ。と思い直した。

ただ、「嫉妬心のない作家表現なんてつまらないですから」という内容の手紙を森山大道からもらったからには、自分自身、「やられた!」と感じる若い表現者をマークして、対峙してゆくつもりだ。
負けるだろうなぁ。という気分もひきつれながら。
感受性と創造力は、また、別のかけひきによってバランスを取るものだから。
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by docore | 2009-04-27 08:09 | 月を運ぶ
ふたつのからみ
4月22日に、
マキイマサルファインアーツで、興味深い対談があるので、出かけてゆこうと思う。
自分の中の象徴的交換が、何事かを引っ張り合っている。
あのあたりが、現代(美)術の中心であっても、何も困らないが、何度か行ったけど、浅草橋の高架下にある立ち食い鮨屋にマサルものはないように思われる。

のだが、引っ越したマキイ マサルのスペースから受けるいくつかの印象は決して悪くは無い。
が。
どうも・・・。

歯切れの悪さは、以前新橋にあったときに、屋上で最後の方にやったもろもろの事柄が、どうも、のどにつかえた小骨のようで、後味が、悪い。ということは、きちんと記しておく。

原因とかはあまりどうでもいいような気もする。
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by docore | 2009-04-21 18:32 | 月を運ぶ
遠藤一郎 7・7 去年恵比寿で
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遠藤一郎について 考える

彼との出会いは、高円寺でなんやかやと、寄った時に、酔い集まった、記憶の方が大きい。
つまらないから、街の夜の目眩を伴う重圧に、軽く、「さようなら」を言うために、屋上や、線路の下の雨風しのげる場所で、酒が入ったグラス越しの挨拶をしたことを多く覚えている。

酒を飲んでおいた方が、記憶には大きく残ってゆく。

渋谷アートワッドで行われる大事なタマカジの展示会の前日まで、夏風邪をひいていて、シャチョーを心配させたり、渋い記憶の底をえぐるDJで大勢いる観衆の中の、たったひとり、を感動させて、泣かせたり、
アスファルトで富士山を作って、何事かを、応援していたり。

それはそうと、去年の7月7日のナディフでのことなんだけれど、
この写真の左奥手にアムス・チームの重要なオーガナイザーたちがいて、紹介しとけば、なんとかなる、
と思ったけれど、「なんとかなったのか?」
ということばかり、気になる。


衆人が認めるように、遠藤一郎は個人として、充分、立派な表現者の手法を身につけているので、
嫉妬とか妬みの領域から、彼の仕事を見つめ始めるのだろう、と思うと、すこし、寂しい。

なんだかんだいっても、
もうそろそろ、「次の季節」がはじまるつつある。ということは事実だ。
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by docore | 2009-04-03 13:59 | 月を運ぶ
川口 あたりを へべる。
なんとも形容しようのない半日を「へべ」という言葉で表してみる。仮に。
その動詞で、「へベル」「へべっている」となるわけだが、
うちから、西へむかって、人の力に驚いて、駅をまたいで、ぼんやりしていると、「へー こんなところだったんだ」と東浦和に着く。
田舎とか地方とか、どうでもいいことだが、完全に「都市の歩行法」とは違う歩き方を強いられる。

さて、行きかう車に悪態をつきながら、工房 集へ着いたのは、午後の中ごろ。
ZAIM FESTAのコラボ4という、考えてみたら、展示って、こんな集合体でやるべきだ、と思わせてくれた、
中津川浩章さんからの、「ぜひ 来てよ」コールに答えて、「ぜひ みるよ」態度で挑んだけど、表現が作り出す可能性に満ちていた。
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中津川さんのZAIMでの展示を読み込む東方力丸の後ろ姿。
今回、川口 太陽の家では写真を撮らなかったけれど、空間の光の状態や、これは、表面としても移し残しておかなければ、と思わせる、質感、があった。
展示として、
工房 集でもコラボレーション展「つないでひらいて・・・そして」という全国から福祉とアートの新しい出会いを模索、実現しているグループが集い、これからどうするか会議をういういしく、腹の中身を出すように促されてはじめていたが、作品として欲しいものがいくつもあり、そして、作り出すのは困難さを伴う新しい世界の地図が展開していた。
伝説的な作家たちは、ある「表現の臨界点」を経験しているはずだが、工房 集の表現者たちは、その臨界からこちらへ挑んでくる。
そこらへんをどう受け止められるか、ということに考えを巡らせながら、工房 集の天窓から漏れてくる光を浴びていた。
施設として課せられるタガをうまく逆手にとっているようなところが、興味深い。
「外から見えるように」
という強制力が、そのまま、表現の本質的なところを剥き出しにしている。

皿を二枚買う。
てぬぐいもいいのがあった。

妙に駅までの帰路が近く感じて、総じて、はじめてゆくところはそんなものだ。と彼女と言い合いながら、
「ほらみて」
と、光の状態を指して彼女は言う。
「ほら みて」

前日に入ったメールで崔から、「ぜひ みて」コールがあったので、朝鮮学校美術部の展示を見たけれど、
ビルの4・5階を使った作品展は崔が何を生徒と共有しているか、が読み取れた。
崔とは去年のIDで、「なんとかしてくれ」アイデンティティを、パスポートを、とかの話になったが、その問題は個別に取り上げなければならない、デリケートな問題だとも思う。
きちんと、生徒が展示の自主管理をしていて、それらが気持ちいい。
俺にはできないなー。と思わせる、態度というものが、そこにはあった。

西川口に、なかば廃墟化した空間、(空間、それは商工会議所なのだが、市場が空洞化しているのならばそれを取り巻く物的空間も何をどうしても「廃墟化」からは逃れられない。)
に成長過程の人間のひとつの取り組みがそこに現れている。
学生の美術展示ということもあり、「やられた」という気分を拭い去れない。
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崔はメールで「黄金町バザールのまね」と書いていたが、川口は川口でやってゆけばいいと思う。
ある種の交流はあるだろうが、土地環境の独自性をもう少し考慮してゆけば、黄金町も西川口も違う側面から語り始められることがいくつもあるように思える。
という立場にいられるのも、こちらが、荒川と多摩川に挟まれて、のうのうと生きているからだが、今回は個々の生徒の表現を評価するよりも、すんなりと写真をのせておくことで、こちらの評価性を読み取ってほしい。
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by docore | 2009-03-15 06:12 | 月を運ぶ
ホフベルグ ベルグ 追悼の
新宿BERGは営業を続けているだろうが、
BERGには「山」という意味がある。
と。

judith hoffbergさんが、白血病で1月16日に亡くなったので、
追悼作品を送れ。
とのこと。

Judithさんのことをよくは知らないが、慎みをもってことにあたろうと思う。
追悼の作品を彼女の紙で受け止める。
というフレーズが、泣けてきた。

8 1/2 × 11。
というサイズも、気持ちを込めやすいサイズだ。
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by docore | 2009-02-10 04:08 | 月を運ぶ



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